白潟天満宮

ご由緒

ご祭神

本社主祭神 菅原道真公(菅公)
本社配祀神 少名毘古那神

菅原道真公

本社主祭神 菅原道真公(菅公)

由緒・沿革

保元年間(1156〜1158年)、平忠度が出雲国を治めていた時、能義郡富田の庄(現在安来市)に富田城を築こうとし、奉行として剛勇の武将である平景清が下向したが、眼病にかかり苦悩が甚だしかった。そこで斎戒浄身し菅公に一心に祈っていたところ夢の中でお告げがあり、まもなく全快した。それからは厚く菅神を信仰し鎮座として富田城内に社殿を建立し祀った。以後富田城内に長く祀られていた。
 その後、堀尾吉晴公が慶長年間(1603年ごろ)富田城を松江の亀田山(現在の松江城の地)へ移されることとなった。吉晴公は白潟に地を選び当社も奉遷された。奉遷後は、歴代松江藩主の厚い尊崇を受け、藩費により造営・維持が行われていた。廃藩後は門前町である天神町を始めとする市内外の多くの崇敬者により維持されてきている。
 江戸時代以来庶民の崇敬も厚く、学問の祖神として広く信仰されているが、創建の故事から眼病の神として、配祀神の御神徳から病気平癒の神としても崇められている。
 小泉八雲の「神々の国の首都」には「ここ(松江大橋)から南に向かって半マイルにわたって、学問と手習いの神である天神様を祭る大きな神社にいたるまで、天神町の広い通りがつづいている。」との一節がある。特に七月二十四日・二十五日の例大祭は現在に至るまで数万の参詣者で賑わう。受験合格祈願・初詣、七五三詣のほか、家内安全・厄除・病気平癒・諸業繁栄のためのお参りも多い。
 明治三十九年には神饌幣帛料供進神社に指定され、現在島根県神社庁指定の特別神社に列せられている。

境内末社

おかげ天神 菅公御幼少時の神像に奉斎 「ぼけ封じ」で知られる
厳島神社 藩主お抱えの名工 小林如泥の作と伝える名建築に奉斎
稲荷神社 敢えて北向きに奉斎 霊験あらたかと言われる
荒神社 榎の木に奉斎
児守神社 亀の背に奉斎 子供の守護神

おかげ天神

ご祭神である菅原道真公は、承和12年(845年)乙丑6月25日に伝統ある学者の家に出生、学者・政治家としてご活躍の後、太宰府で延喜3年(903年)2月25日、数え年59歳で薨去になった。没後、天満大自在天神(天に満ちて自在に威徳を示される神)と崇められ、国内1万2千余社に祀られている。
この菅公のご聡明で広大なご神徳にあやかり建立したご神像である。幼少の頃より文才に優れ、早くも五歳にして「うつくしや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」と詠まれた。この像は、歌を思案されているお姿を想像してのものである。
「学業の進達」はもとより、いわゆる「ぼけ封じ」・「諸病平癒」を特に祈念している。布に清水を含ませ、願意に沿ってお身拭いをして拝礼し「おかげ(ご神徳)」を受けられたい。

<参拝方法>

御身拭い布、祈願ローソクを授与します。
おかげ天神の隣にあるローソク立てに祈願ローソクを立て、灯明を点じます。
御身拭い布に清水を含ませます。
願意に沿ってご神像のお身拭いをします。
拝礼します。